―何時何処で生まれたんですか?
N・1969年2月22日、埼玉県秩父市の病院で産まれました。うお座です。足が大きかったようで、「この子は大きくなりますよ!」と言われたそうです。でも足のサイズは26cmと小さめで、最近はご存知のとおり横に大きくなっています。
―血液型は?
N・典型的なB型だと自覚しています。そしてそのせいで人に迷惑をかけていることを、いつも心の中で反省しています。でも人からはA型に間違われることもありますね。
―幼い頃はどんな子供でしたか?
N・マンガが好きでした。愛読書は「少年マガジン」と「少年ジャンプ」。その影響で先ずは釣りにはまりました。「釣りキチ三平」ですね。田舎だったので、主人公と似たような環境にありましたから、マンガを読んでは家の近くの川や沼などでいろいろと真似しました。でもブラックバスは未だに一匹も釣ったことがありません・・・。
―その頃、スポーツは?
N・早生まれだったせいか、同世代の中でも虚弱な方でしたから、あまり記憶にありません。父親は野球が好きでした。昔の後楽園球場の頃、巨人戦を見に連れて行ってくれましたね。高田(現ヤクルト監督)がレフトポール際にホームランを打ったのを覚えています。
―それが何故ゴルフを?
N・やはりマンガです。少年ジャンプに「ホールインワン(金井たつお作)」というゴルフマンガが連載され、興味を持ちました。その頃は少年サンデーで「プロゴルファー猿(藤子不二雄A)」も連載されていました。近所の木工所から木のクズを拾ってきて、のこぎりで切って釘で打ちつけ、ゴルフクラブのようなものを作ったのですが、それは「猿」の影響です。
―最初からクラブを作っていたんですね!
N・当時ゴルフはそれ程ポピュラーではありません。私の両親もゴルフはやっていませんでしたので、家にゴルフクラブなんてないわけです。となると作るしかありませんし、そいうアクションを起こすのは得意だったんだと思います。
―そのクラブで・・・?
N・実家の庭に植木鉢を埋め込み、パットパットゴルフみたいにして遊んでました。とはいえ洗濯物を干すのがやっとの狭い庭ですが、今と違って体が小さかったので、十分なスペースがあったと記憶しています。
―それは何歳の頃ですか?
N・多分小学校3年生くらいだと思います。初めてテレビで見た「マスターズ」が1978年のゲーリー・プレーヤーの奇跡の大逆転「63」だったんです。それが小学校4年生の春です。
―ホンモノ(?) のクラブを手にしたのは?
N・父親が友人のシングルさんからお古のドライバーを貰ってきてくれました。そしてそれをカットしてグリップをつけたものが最初に手にしたクラブです。サンケイゴルフ「ピート・ナカムラ」のドライバーでしたね。洋梨形状でシャローフェース、黒塗りで赤のペーパーファイバーインサートでバックメタル付き。なかなかクールなドライバーでした。
―ゴルフは何処でやっていたんですか?
N・家の直ぐ近くに中学校のグランドがあり、グランドとその周辺でゴルフらしい遊びをやっていました。ドライバーを土の上から打っていたので、球が上がりません。ゴロしか出ませんでした。飛距離は80ヤードくらいですかね?とにかくキャリーが出ないのは、その後のゴルフに影響したと思います。その後直ぐにPWとパターを頂きまして、一応クラブが揃ってきました。グランドの端の方に穴(カップ)を掘って、ドライバーにPWとパターでプレーしていました。だいぶゴルフらしくなってきましたね。
―練習場とかは?
N・隣の町まで行かないとなかったので、あまり行った覚えはありません・・・。自分では行けないわけですから。でも練習場に行くと芝生があり飛距離の看板があるので、それは新鮮でした。距離はPWで50ヤード、7番アイアンで90ヤードくらいでしたね。ドライバーはライナーから転がって130ヤードくらいだったと思います。でもやっぱり練習場でボールを飛ばすこととかに喜びを感じた記憶はありません。グランドでやる穴掘りゴルフの方が楽しかったです。植え込みを越えてのブラインドホールとか、神社の屋根に当てて落として寄せるなんてことの方が面白かったです。
―コースデビューは?
N・小学校4年生のお正月に、車で1時間チョッとのところにあるショートコースに連れて行ってもらったのがコースデビューですね。1番ホールは多分80ヤードくらいの打ち上げでしたが、ドライバーで見事ワンオンしたのを覚えています。でも上につけて結局4パット。冬枯れのグリーンにやられました。いくつかパーを取ったと思います。
そしてその春5年生に上がる時、本コースに連れて行ってもらいました。レディースティからプレーして、58と60で118だったと思います。
―ジュニアの試合とかは出なかったんですか?
N・そういう大会があるのは知っていましたが、田舎なので身近な存在ではなかったです。当時は「子供がゴルフをやる」というのは、あまりポピュラーなことではなかったですから、なんとなく目立たないようにやっていたような覚えもあります。クラブを持ってバスに乗っていると、大人からのネガティブな視線を感じることもありましたから。
―でもゴルフは好きだったわけですね?
N・はい。当時は青木功プロがちょうど世界で活躍し始めた頃です。ヒーローは青木プロでした。スポーツ新聞で「青木が速いグリーンに対応するため、今週はパターに鉛を貼って普段より重くしている」なんていう情報を得ると、自分も鉛を貼ったりして喜んでいました。だからクラブへの興味はその頃からです。ウッドのソールのビスを外して鉛を入れたりしていましたから。ただ「クラブをいじる」のが楽しいというだけで、違いが分かるようなレベルではありませんでしたけど。
―青木プロの記憶に残る試合とかはありますか?
N・1980年、二クラウスと戦ったバルタスロルでの「USオープン」ですね。最終日は朝ラジオのニュースで速報を聞き、夕方学校から走って帰ってテレビの再放送を見ました。黒のLポケットのスラックスに、赤のダンロップのカラー付ゴルフシャツ。カッコよかったですね・・・。この赤のダンロップのシャツは、後に通信販売で買いましたね。小学校6年生の時です。今でいうならナイキの赤いシャツを買うようなものですかね・・・?
―中学時代はどうだったんですか?
N・クラブ活動でバスケットボール部に入りました。3年の時はキャプテンを務め、県大会に出場しました。それなりに没頭したので、ゴルフをやる機会は減りましたね。でもバスケットをやることで体力がつき、体育の成績が中学1年の3学期ではじめて「5」を頂いてから、高校卒業までずっと「5」だったんです!小学生の頃はたいてい「3」かよくて「4」で「5」は不可能な数字。まあまあ器用だけど、貧弱だったんですよね。ちなみにバスケットをやっていた頃が生涯で一番モテたと思います。試合に行くと他の学校の女子生徒から手紙やプレゼントを貰うのが当たり前だったですから。
現在は、ブログや某掲示板で叩かれることはあっても、異性から好意を寄せられる書き込みは一切ありませんので!
―ではゴルフはお休みしていたと?
N・私が中学生に上がると同時に兄が大学を出て社会人になりゴルフを始めたので、一緒に練習場に行ったりはしていました。兄は最初からリンクスのメタルドライバーに2ピースボールです。ゴルフ的にはまったく世代が違いますね。
でもその頃、横浜の親戚を尋ねがてら本間ゴルフの工場に行って、パーシモンドライバーをオーダーで作った覚えがあります。赤いインサートの「ヒロホンマ」のです。シャフトはダイナミックゴールドのS-400。でもヒールヒッターだったので、直ぐにネックにひびが入り、とてもショックでした。
―そして高校でゴルフ部に入るわけですね
N・はい。進学の際の第一希望は、とにかく外に出ることでした。二つの選択がありました。ひとつは学区内にある公立高校。ここは兄の出身校で、通学するのは厳しく下宿することが出来ます。しかし、ここにはゴルフ部はありません。そしてもうひとつは、ゴルフ部のある東京の私立高校です。結果的には、公立高校の受験に失敗し、補欠で合格していた「日本大学櫻丘高等学校」に進むことになりました。公立高校に合格する確立は60%くらいだったと思いますが、なんと受験当日、急に体調不良になりました。英語のヒアリングテスト中にトイレに駆け込まなくてはならないような状況で、自宅に帰るバスの中で嘔吐したりと、一体何が原因だったのかは分かりません。まあ、そのせいで受験に失敗したとは言えませんが、仮に公立高校に合格していたら、そっちに進学した可能性が高いので、そこにひとつの分岐点があったのは間違いありません。
―がらりと環境が変わりましたね
N・そうですね。入学式の時、全校で約2000人を越える生徒が体育館に並びましたが、この中に知っている友達が一人もいないという状況には身震いしましたね。でも皆、いい奴ばかりでしたので、田舎モノと馬鹿にされることもなく、3年間で多くの素晴らしい友達を得ました。
―ゴルフ部はどうでしたか?
N・入学早々、顧問の先生に入部のお願いに行きました。そしたら、とりあえず頭を丸めて来いと言われました。中学時代は校則の頭髪規制とかに反発していたのに、ゴルフのためならと直ぐ床屋に駆け込みました。そしてホームルーム終了後、部室の前に行くと何人かゴルフ部の入部希望者が並んでいました。その中に、江連忠さんが居たわけです。
―江連プロとの初対面ですか。印象は?
N・「ゴルフやったことあるのか?」と聞かれたので、「ある」と答えました。「いくつで回るんだ?」と聞かれたので、「ベストスコアが82で、ハーフ39が一度ある」と答えました。そしたら部室前に並んでいた周りの入部希望者に「こいつはハーフ30台が一度あるってよ!」といいました。なんかエラそうだったので「自分はどうなの?」と聞くと、「何回もあるよ!」とぶっきらぼうに言われました!
―江連プロとは同じクラスになったことはあるんですか?
N・高校2年生の時に同じクラスでした。江連プロは成績も優秀で、授業料免除の特待生に選ばれていました。私も1年生の時はまだ友達が少なかったので、そのせいか成績がクラスで一番だったなんてこともありますが、その後は友達の量と反比例して成績は落ちる一方でした。私にとってはやっと友達もできて「東京デビュー!」みたいな時に、江連プロはハイランドセンター(杉並区にある内藤雄士コーチの実家の練習場)に住み込みながら練習していましたからね。江連プロは中学生の頃からハイランドセンターのジュニア塾に入って棚網良平先生の下でビシビシやっていましたので、ゴルフに関しては雲泥の差がありましたね。
―ゴルフ部ではキャプテンだったと聞きますが?
N・そうです。まとめ役みたいなもので、実力的には3番手か4番手くらいでした。まあ、中学までは田舎なので班長や学級委員に生徒会など、まとめ役的な役割をずっと果たして来ましたが、まさか高校でもそんな役割を担うとは思ってもいませんでしたね。東京の学校には、もっと能力の高い人間が溢れていると想像していましたから。今思えば、内申書のせいだと思いますが、高校一年の時の担任にいきなり学級委員に指名され、結局高校でも3年間学級委員をやりました。
―高校ゴルフ部での成績は?
N・結局関東ジュニアの予選を通過することができませんでした。高校3年の時は練習ラウンドで70台も出て、「この夏こそは!」と意気込んでいたら、直前でなんとシャンク病になり、公式練習日のスコアは100です!本番でも何発かシャンクが出て、予選通過はなりませんでした。最後の試合となった夏の全国高校団体戦でも2日目のスコアが43・52・36というように、非常に不安定で思うようなゴルフができませんでした。
―厳しい結果でしたね
N・はい。このシャンク病はしばらく続きましたね。技術的にも迷うという以前のレベルですから、まったく訳が分からない状態です。それにより、ややゴルフに対するモチベーションが落ちたのも事実だと思います。「プロになりたい!」と思っても、シャンクしか出ないのですから。とはいえ11月には大学進学のための学力テストがありますので、自分としてはゴルフとのかかわり方も含め、この先どうしていいか分からない状態でした。
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