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   vol.3 「アマチュアゴルファー〜渡米」
 

 ―フットボール部を辞めた後はどうしたのですか?

 

N・とりあえず高校の時からお世話になっていた東京都武蔵野市の「グリーンパークゴルフセンター」というゴルフ練習場に戻りました。ボール拾いや打席整備のアルバイトをしながら、所属のプロや大学ゴルフ部の先輩方と練習をしていました。大学には籍がありましたが、授業には全く行きませんでした。フットボール部に入るために選んだ学部でしたから、大学に残っても無意味でした。とはいえ身分がハッキリしないわけです。練習場の社長が厳格な方でゴルフもトップアマでしたから、「とりあえずちゃんとやれ」ということになり、偶然なのですがちょうど大学1年の最後の日に退学届けを提出して大学を辞め、4月から練習場の社員として働くことになりました。

 

―いわゆる研修生ですね?

 

N・いいえ。アマチュアの競技に出てしっかりとしたゴルフと試合経験を積んで上手くなれというのが社長の方針でしたから、直ぐにいわゆる研修会に入るというプランはありませんでした。先輩のプロもそのケースを踏み、アマチュアで試合経験を積んだ後に関東練習場連盟の研修会を最短で通過。プロテストも一発合格でしたので、それに倣ってやれということです。

 

―アマチュアの試合に出ていたのですね?

 

N・当時はアシスタントプロの試合も少なく今で言うミニツアーもありません。確かに試合はアマチュアの方が多かったかもしれませんね。でも時代はバブル期でしたので、経費が掛かりましたね・・・。これは親に感謝するしかありません。ジュニア時代に「関東ジュニア」の予選が通過できなかったので、初めて「関東アマ」の予選を通った時は嬉しかったです!でもその後「関東アマ」などの公式戦や、パブリック選手権に新聞社主催の大会などでは、予選は通るけど決勝ではダメというレベルでしたね。だいたい試合の平均ストロークが76前後でした。試合でパープレーやアンダーは望めないレベルですね。

 

―今、当時を振り返るとどうですか?

 

N・身体的には一番いい時期だったと思います。アメリカンフットボール部のおかげで、ボールも飛ぶようになっていましたから。しかし、何をやっていいのか分からなかったですね。「走って身体を鍛えてボールを沢山打てば上手くなる」という言葉が信じられませんでしたし、そういう練習には没頭できなかったです。ビデオカメラなんかも買って自分のスイングを撮影しましたが、結局ビデオの見方やスイングに関する考え方が備わっていないので、全く機能しませんでした。この状況はスタート地点にも立てていない状態ですね。

―そういう時期がどの位続いたのですか?

 

N・練習場には4年勤務しました。依然突破口は見えませんでしたが、何か変えないといけないと思いました。長年家を出ていたというのもあり、埼玉の実家に戻り、自宅から通えるゴルフ場に研修生として入りました。ここでも結局研修会には入りませんでした。ゴルフ場的には研修生扱いですが、アマチュアの試合に出ていました。これは今感じるのですが、私は大学ゴルフ部の学閥もなく、研修生会の仲間というのもいません。そういう横の繋がりが希薄なのに、こうしてゴルフの仕事が出来ているのも珍しいと思います。

 

―ゴルフ場に入ったことで環境が変わりましたか?

 

N・そうですね。やはり毎日のようにコースを回ることによる馴れみたいな上手さはあったと思います。試合でもパープレーに近いスコアや、系列ゴルフ場の研修生が集う研修会でアンダーパーが出たりしましたから。でも根本的には変っていません。相変わらずダメなゴルフのままです。それが春先のパブリック選手権の予選で露呈しました。不覚にも終盤で崩れて予選落ちです。これは失望感がありましたね。先が見えなくなりました。

 

―かなりショックだった?

 

N・遅かれ早かれみたいな感はありますが、ダメなゴルフが露呈した訳です。策がないのだから、どうにもこうにも前に進むということが不可能です。でもそんな頃に出会いがありました。その秩父のゴルフ場にアメリカ帰りの僕と同じくらいのゴルファーが二人、あるプロの紹介でアルバイトに来たのです。彼らはシアトルのジョー・ティールというコーチのゴルフスクールに留学していて、スクールを卒業して日本に帰ってきたところでした。彼らからアメリカのゴルフやティーチングメソッドの話などを聞いて、もの凄く羨ましいなぁ!と思いました。また彼らからスイングに関するアドバイスやドリルなどを教えてもらい、自分のゴルフが良くなったのも嬉しかったです。そんなこともあり、「自分もアメリカでゴルフを学んでみたい!」と思うようになりました。ちょうど、その頃アメリカ帰りの江連プロがトーナメントで活躍し始めた頃です。アメリカのゴルフのことを聞こうと思い電話したところ「じゃあ、オレのキャディをやってくれ!」ということになり、ゴルフ場を辞めて渡米の下調べを兼ねながら、江連プロのキャディをやることになりました。

 

―突然の展開ですね・・・。江連プロのキャディの時の思い出はありますか?

 

N・とにかくボールが飛ぶのでビックリしました!当時江連プロはテーラーメイドの契約でした。青いステンレスヘッドに同色の「インテグラルシャフト」という「バブルシャフト」の原型的なシャフトが入ったドライバーを使っていて、ボールはBSの「WF432」です。そんなギアなのに今の460CCチタン時代で考えても遜色ないくらいの飛距離が出ていました。この頃は江連プロも駆け出しのツアープロです。すでにティーチングプロとしても注目されていましたが、試合会場ではよく練習して自分のゴルフに没頭していた記憶があります。私としてはこの後もいろいろと江連プロからは勉強させて貰いましたが、彼のゴルファーとして非常にピュアでがむしゃらな頃を共有できたことが一番の思い出です。

 

 

クョスコニョ    [1] 
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