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   vol.4 「アメリカ〜インストラクターへ」
 

―渡米の夢は果たせたのですか?

 

N・はい。24歳の秋に半年間のビザが取れて、アメリカへと渡りました。でも先ずはハワイに入ったのです。当時お世話になっていた先輩と、ハワイでゴルフ合宿をやってから本土に向いました。合宿を終えホノルルの空港で先輩が「頑張って!」と言葉をかけてくれて握手をしましたが、その時は急に不安になりました。

 

―アメリカではどのような経験を積んだのですか?

 

N・最初はロスからコロラド州へ入りましたが、すぐにフロリダ州へ向いました。秩父のゴルフ場で会った友達がまたアメリカに戻りオーランドで生活していたので、それを頼りに尋ねていきました。その友達の紹介で「ウィンダーミュアー」というカントリークラブで練習させてもらうことになりました。後で聞いた話では、同時期にそのクラブで若き日のデビッド・デュバルが練習していたそうです。そこのクラブでは、所属していたティーチングプロからレッスンを受けながら練習していました。明るく熱心なコーチだったのを覚えています。日本のティーチングプロとは違うと思いましたね。そしてオーランドで一段落した頃、江連プロがレッスンビデオ撮影のためフロリダにやってきました。急遽その撮影のお手伝いをさせて頂くことになり、その現場を通じて当時の江連理論を学ぶことや、彼のホームグラウンドであるマイアミ・ドラールゴルフリゾートの「ラーニングゴルフセンター with ジム・マクリーン」に出入りさせて貰ったりする機会を得ました。その後、ジムのスタッフからレッスンを受けるのですが、ビデオ解析に基づきドリルやスイングイメージを処方して修正していくノウハウは、今までのレッスンスタイルに比べるととても洗練されていて衝撃を受けました。

 

―試合には出ましたか?

 

N・フロリダに行って直ぐ、「デキシーアマ」という試合に出ました。これは事前に自分でトーナメントディレクター宛に「出場したい!」というレターを書いて、招待されたものです。この試合が、多分自分が今までプレーした中で一番グレードの高い試合だと思います。前年度の準優勝者がタイガー・ウッズで、歴代チャンピオンにはL・ワドキンスやF・カプルスにJ・パーネビックなどメジャーな名前が並んでいましたから。日本人のエントリーは、当時ジュニアの今田竜二プロに若き日の桧垣プロ兄弟の名前がありました。撮影で渡米していた江連プロが日本に戻り、オーランドに帰ってからは「トミーアーマーツアー」というミニツアーにアマチュアで参加しました。プロエントリーで稼ぐ程の自信はなかったし、アマチュアの方がエントリーフィも安くより多くの数がこなせると思いましたから。週末の試合には今田プロもエントリー(アマチュアで)していましたね。この頃からコーチのリチャード・エイブルが着きっきりでフォローしていたのが印象的でした。当然ながら、今田プロには一度も勝てませんでした・・・。でも何度か入賞して、ゴルフショップの金券を頂きゴールドウィンの「CNCミルド」のドライバーを買ったのを覚えています。

 

―何か記憶に残る出来事はありますか?

 

N・あるワンディの試合で、ローカルのベテランプロと回りました。ミニツアーの常連のようでした。そのコースのグリーンがやや荒れていて、ボールが跳ねてしまい皆パットに苦しんでいました。案の定、私もショートパットを外したりしてイライラしていたら、そのベテランプロが「ノブ、お前のせいじゃない。気にするなよ!」と声をかけてくれたんです。何かゴルフのやさしさに触れた気がして、とても感動したのを覚えています。

 

―アメリカはどんなところでしたか?

N・自分は日本人なんだ!と強く感じましたね。B型のマイペースなので、何があってもあまり気にしない方ですが、やはりいろいろな意味で人種や文化の違いというのに触れた気がします。世の中にはいろいろな考え方があるということを、身をもって学んだ気がします。でも当時はドルに対して円が強かったので、アウトレットやウォールマートでの買い物や、名門ゴルフコース巡りなどは楽しかったですね。消費の国アメリカ・・・。ファーストフードも沢山食べましたよ!

 

―どんなコースでプレーしたんですか?

 

N・半年の滞在で、フロリダ、コロラド、カリフォルニアを旅しました。キーウエストにも行きましたが、ゴルフはしませんでした。フロリダでは「ドラール・ブルーモンスター」やドナルド・ロス設計の隠れた名コース「ポンセデレオン」が印象的。コロラドでは奇岩で有名な「アローヘッド」。高地で息切れしましたね。カリフォルニアではこの前USオープンが開催された「トーレパイン」にアリスター・マッケンジー設計で終の棲家がある「パサティエンポ」。モントレー半島も訪れましたが「ぺブルビーチ」や「スパイグラスヒル」は満員で入れず「スパニッシュベイ」を回りました。観光名所である「オーガスタナショナルGC」の入り口にも行きましたが、もちろんプレーはしていません。

 

―そして帰国するわけですね

 

N・はい。今思うとアメリカに行った6ヶ月間で、ゴルフが大きく伸びたかというとそうでもありません。でもゴルフに対する知識やものの見方が広がったので、それはプラスになりました。あと英語はそれなりに話せるようになっていましたね。今でもレストラン・ホテル・ゴルフ場の予約や対応に困らない程度の英語力ですが、全く出来ないところからこの半年でそれくらいまでは出来るようになりました。特にアメリカ英語なので、多分今のオージー風よりは流暢に話していたと思います。

 

―帰国後はどうされたのですか?

 

N・当時は江連プロが杉並の「ハイランドセンター」でスクールを出していましたので、とりあえずそこでインストラクターとしての活動を始めました。それと同時に江連プロのマネージャーみたいな役割も果たしていたので、メディア関係の仕事などでは貴重な経験をさせて頂きました。ほぼ同時期に働き出したのが谷将貴さんです。谷さんと私は全くタイプが違いますが、何故か一緒に試合に行くことだけでなく、夜の吉祥寺とかに繰り出していました・・・!当時彼はそのルックスからか(?)女性の生徒さんが多かったですが、コンパクトでフェースの開かないきれいなスイングをする生徒さんが多く、とても上手く生徒さんを導いているなと感心していました。谷さんもユタ州のゴルフスクールに留学していて、その関係で2008年度レッスンオブザイヤーの井上透さんや星野豪史さんなども遊びに来ていました。ご存知だと思いますが、その頃の「ハイランドセンター」のマネジメント役は内藤雄士さんで、武田登行プロは毎日練習に来ていて、ジュニアクラスには植村啓太さんがいました。これだけの人が集まっていたこと自体、信じられませんね!

 

―今、このメンバーが揃ったらスゴイことになりますね!

 

N・そうですね。伝説のロックバンドというより「トキワ荘」の方が近いかな・・・。私が言うのもなんですが、「歴史はそこから始まった」みたいな部分はありますね。今は皆さんそれぞれ個性を生かした活動をされていると思いますが、そのうち同窓会が出来るといいですね。

 

―その後は・・・?

 

N・この後はすでにプロフィールとしてメディアに出ていますし、どんどん「DEEPになっていきますから、このHPの会員ページのネタにでもしていきたいと思います。

 

―ありがとうございました

 

N・こちらこそありがとうございました!

 

 

(聞き手)永井延宏公式HP「Deep in Golf」管理スタッフ

クョスコニョ    [1] 
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